きの丸プロフィール

きの丸(埼玉県在住 1978年生まれ♂)


2011年32歳の時に会社をつくって地域メディアの事業を始めるも失敗して借金地獄に落ちました。

失意の中、大手ネット企業でWEBディレクタをしながら6年かけて生活を立て直してきました。

何度も失敗を振り返り、どうすれば次は上手くいくかを考えてきました。

生活が苦しかったぶん、おそらく普通の人よりも。

そして今思うことは
自分が本当に夢中になれることにフォーカスして、何をするか自分の意思で選択する働き方にシフトしていこう。ということです。

価値を生み出して、その対価をもらうビジネスにおいて、その価値を、生産性を最大化する方法は自分が夢中になることです。

誰もが知っているような儲かっている会社でも生産性の高い人は2割くらいということがわかりました。

実質、あとの8割は養われているということです。

6年メディア事業のディレクションをしてきました。

今、誰もがメディアを持つことができて情報発信できる分野においては、個人が最強です。

いや、正確には自分が夢中になれることを発信する個人です。

国境のないWEBの世界で、ニッチな、それでも個人では決して小さくないマーケットを取りにいこうと思います。

きの丸ブログではそのプロセスと考え方、ノウハウを発信します。

ぼくが個人で本当に人生を楽しめる働き方を実現することで、記事を読んでくれたあなたの参考になれば幸いです。

いつか酒を飲みかわせることを想像しつつ。

きの丸のこれまでの人生

幼稚園~小学校時代

千葉県の佐倉市で過ごしました。
ぼくの好きなアーティスト
BUMP OF CHICKENと同郷です。

絵を描くのが好きな内向的な性格で、興味のあるものは何でも描いていました。

とくにキン肉マンの絵を描くのが好きでしたね。

駄菓子屋できなこ棒とかソーダ粉を買うお金を稼ぐために、学校で友達に1枚10円で売って商売していましたw

母親が教育熱心だったので、毎日の勉強ノルマをこなすまではテレビを見せてもらえなかったです。

ゲゲゲの鬼太郎が見たくて必死で終わらせるものの、テレビをつけたときには残り3分だったりして次回予告しか見れないなんて時は泣いていましたね。

お金がない家だったのでゲームはもちろん自転車もなくて、いつも友達の自転車を走って追いかけていたから足が速かったです。

徒競走とかリレーで並んだところから一段ギアをあげて抜く余裕がありました。

絵が上手で勉強ができて足が速い!輝いていた時代でした。

初めての挫折

埼玉に住んでいましたが栃木の大平山の中腹にある國學院大の付属高校に行きました。

部活に入る人もほとんどいない特進クラスでしたが、中学で注目されたくて始めたギターを披露したくて軽音楽部に入ります。

しかし入学して間もない夏頃、突然アクシデントにみまわれます。

ヘルニアによる腰痛です。

山の中の学校なので、体育館と音楽室がやたらと遠くて、長い坂道から8階まで階段を上がったりします。

この学校出身の人ならわかると思いますが、体を強くするために意図された設計になっています(泣)

自意識の高かった僕は、腰が痛くて歩けないなんてカッコ悪くて言えませんでした。

病院の治療も整骨院のハリもカイロプラクティックもやりましたが、普通に学校生活を送ろうとする中で悪化していって、ついには90度腰を曲げて滝汗で登校するようになりました。

もうカッコ悪いとかも完全になくなって、好きな子にそんな姿見られたくないみたいな余裕は1%もありませんw

軽音楽部も退部します。

とにかく家を出て自分の席にたどり着くこと。

痛みをこらえてその日を終えることが目標の日々です。

親からは「みっともないから背筋を伸ばせ」と言われていましたが、すでに背骨が湾曲するまで悪化していたので無理でした。

実は腰痛ってどれくらいの痛みかが自己申告でしか診断できない難しい症状なんですよね。

それに人の痛みというのは経験した者にしかわからないんです。

痛みで一睡もできない日が続いた時に親に限界を訴えて病院の診察をうけて入院させてもらいます。

手術が有効ではない症状だから時間をかけて
自然治癒させるしかないという診断でした。

座薬と麻酔で久しぶりにまともな睡眠をとって
2ヶ月かけて回復します。

高校時代ヘルニアを何度か繰り返しますが、初回にくらべれば軽度です。

とにかく体をケアするようになりました。

ジムで腰痛を緩和する筋肉をつけてプールでリハビリしました。

高校時代にこの経験があって、普通に生活できることの幸せを実感しました。

大学時代

大学に入学して女の子がたくさんいて楽しそうなテニスサークルに入りましたw

テニスはやってみたら面白くて、上手くなりたくなったのでテニススクールにも通いつつ週に5日テニスをやっていました。

ただサークルを1年やってみて、ぼくは集団でいるよりも一人の時間を過ごす方が好きだと分かりました。

それからの大学生活はかなり日陰ですw

バンド活動とパチンコと深夜のカラオケ屋のバイトに明け暮れました。

ぎりぎりで単位がとれるくらいしか講義にはでませんでしたね。

何の役に立つのかというイメージを持つところまで深掘りできなかったわけです。

まぁ、絵に描いたようなダメ学生のまま、なんとか留年せずに卒業します。

社会人になって

2001年に池袋にあるソフトウェア開発の会社に
就職しました。

自社開発はしていなくて、客先の会社に常駐して開発する会社です。

エンジニアの先輩社員は全員出向しています。

この会社に入って大きな影響をうけた人は創業者(当時は会長)で大酒飲みでした。

研修期間中、週に1回ペースで20人の新人を飲みに連れて行ってくれる人でした。

新人は優秀な順番に受注先の会社に出向していきます。

ダメ学生上がりで何のモチベーションもなく就職したぼくは、ある日研修中に居眠りしているところを会長に見つかり逆鱗にふれました。

会社のトップに馬鹿野郎の烙印を押されて、研修と毎週の飲み会が地獄になりました。

さすがになめきっていたことを反省して深く落ち込みましたね。

研修の成績は同期20人の真ん中くらいでしたが
最後の1人まで本社に残ることになりました。

いわゆる飼い殺しです。

「これは終わったな…」

ということで転職サイトを徘徊していました。

講習も終わってただ1人本社に残ったぼくは広い研修部屋で自習ですw

プログラミングの勉強をしながら、どうやってこれから生きていこうかと考え直します。

時間はアホみたいにありますからねw

そんなある日、会長に誘われて飲みに行ったのがきっかけでした。

たまたま本社に誘う人がいなかったのでしょうw

ぼくは話上手ではない分、聞き手に回ることには慣れており、とにかく酒が飲めたので会長の需要にハマったのだと思います。

そのときから一転、会長に好かれていきます。

創業したときの苦労話から、バブル期にラスベガスで遊んだ話。

手塩にかけて育ててアメリカに留学させていた後継者がMBAをとって即辞めた話。

ほとんど毎日、昼から呼ばれて深夜まで飲んで
会社に泊まっていました。

しょっちゅうスナックでケンカをするし、飲み過ぎると急に怒鳴り出すしで大変なことも多かったですけどね。

それと引き換えに起業するという選択肢がリアルに芽生えた時期でした。

いつも雇われプログラマーより面白いことが見つかるまで考え続けろと言ってくれていた言葉が潜在意識に棲みつきました。

とりあえずプログラミングを満足できるところまで習得したところで退職して、フリーランスになります。

フリーランスから会社起業

2011年SNSが流行りだしたころ、時代に乗るべく会社をつくりました。

Facebookで地域メディアを作って、事業者の広告掲載で収益をあげる事業計画です。

金融公庫からお金を借りてスタートしました。

社員を2人雇用して、社長の肩書で意気揚々とメディア作りと営業をはじめました。

酒の飲み方を知っていたので、どこで飲めば地域の偉い人たちに接触できるかという情報を集めて早くから人脈をつくることができました。

人が人を紹介してくれて、次第に契約はふえて、メディア以外のWEBデザインの仕事も入ります。

この調子で上手くいくだろうと疑いもなく調子に乗って、毎日飲み歩いて名刺をばら撒いてましたねw

名刺に代表取締役と書かれているだけで、自分がすごく大きくなったような気がしていました。

広告投資をしてメディアのアクセスは上がっていき、Facebookページの一つの投稿には1000人のいいねがつくこともありましたが、まるで送客に結びつきませんでした。

今考えればいくらでもやりようはあるのですが
当時はアクセスさえあれば送客できると思っていました。

地域事業者の横のネットワークは強力なのでメディアに集客効果がないとなればすぐに噂は広まります。

月額契約の更新も新規もとれなくなって、赤字を垂れ流すのをとめられませんでした。

引き際も下手で、失敗を認められずにデザイナーの社員まで営業に駆り出したあげく、契約が取れないことを責める有様です。

そうこうして準備したお金が底をついて心にも余裕がなくなります。

・融資金の返済
・税金、自宅と事務所の家賃
・従業員の給与

これをなんとかするためにカードローンの借入を繰り返して利息が膨れ上がりました。

もうここから挽回する目がないのはあきらかなのに、膨れ上がったプライドが邪魔をしてだらだらと赤字を垂れ流し続けます。

ぼくの信用で借りられるお金はぜんぶ借りました。

国金の追加融資の可能性がありましたが、保証人が必要という話になり、父に頼ろうとするも断られケンカした挙句に絶縁します。

母は泣きましたが、その母もぼくは思いつく限りの暴言で責めました。

お金の余裕のなさはつまり、心の余裕のなさですね。

この頃は臓器を売れないか調べたりもしていたので相当に病んでいたなあ、とおもいます。

かかってくる返済催促の電話が嫌になって、携帯をサイレントにして一切とりませんでした。

やがて裁判所から訴状が届きますが、いいかげんムダなプライドも浄化されて現実を見ることができるようになってきた頃です。

裁判所では具体的な返済計画を提出して可決されます。

再起しないなら、生きている意味もない、くらいに思っていたので破産にはしませんでした。

利息も含めて全部返済する計画です。

今が底辺で、ここからは上がるだけと自分に言い聞かせて帰り道に電柱にかくれて泣いたのをよくおぼえています。

ムダも多くて痛い失敗でしたが、ここで得たものはこれからのビジネスに生かそうと思っています。

長文になりましたが、今後ともきの丸ブログをどうぞよろしくお願いいたします。